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③安東の河回村(¥35,000)

07:00~21:00。河回村は勿論、屏山書院、陶山書院、鳳停寺まで車でいきます。ホテル(ソウル市内所在に限り)まで迎えにいきます。

5人まで¥35,000(入場料と食事代は別)。6人から8人まではお一人¥2,000追加。
★宿泊者は¥1000割引★

河回村

行政的な地名は安東市豊川面河回里。「河回」の名が示すとおり、花川(洛東江上流部)が大きく屈回する地点にあり、三面が川に囲まれている。村の南には南山、村の北には芙蓉台と呼ばれる絶壁があり、とくに川の対岸の芙蓉台の上からの村の眺望はよく知られている。
この村は、16世紀に豊山柳氏の一族によってつくられ、その後同族集落として存続してきた。現在も、約180戸ある村の住人の7割は豊山柳氏である。豊山柳氏からは朝鮮王朝中期の儒学者・政治家である柳雲龍・柳成龍兄弟を輩出している。豊山柳氏宗家(柳雲龍の末裔)の屋敷である養真堂や、柳成龍の住居であった忠孝堂など、両班の暮らしを窺うことのできる瓦葺きの古い建築や、藁葺きの家々が数多く保存されている。また、仮面劇である河回別神クッも伝えられており、使用人の目から両班を諷刺する内容となっている。河回別神クッは大韓民国指定重要無形文化財第69号となっており、使われる仮面は大韓民国指定国宝第121号となっている。
1984年に村全体が重要民俗資料(現・重要民俗文化財)第122号に指定された。訪韓した国賓級の人物も足跡を残しており、1999年にはイギリスのエリザベス2世女王が、2005年にはアメリカのブッシュ(父)元大統領が河回村を訪問している。

屏山書院

屛山書院(韓国語: 병산서원)は、韓国の慶尚北道安東市豊川面卞寺里にある書院である。書院は朝鮮王朝時代(1392年 - 1897年)の地方の学問機関の一種である。光海宮の治世5年目の1613年、地元の儒学者、特に鄭經世によって、著名な儒学者で政治家の柳成龍の学問的業績と徳を記念して尊德寺(じょんどくさ)として最初に設立された。書院の前身は豊岳書堂(ぷんがくしょどう)で、高麗時代に豊山の柳氏族を教育するために豊山にあった学校であった。柳成龍は1572年に書堂を現在の場所に移した。

陶山書院

陶山書院(とうざんしょいん[1]、トサンしょいん、도산서원、トサンソウォン)は、大韓民国慶尚北道安東市陶山面土渓里にある書院。韓国の旧1000ウォン札にも李滉とともに描かれている。
概要
元々は1560年に李滉によって建てられた陶山書堂。彼の死後、祠が設けられるとともに書院として整備され、1574年、当時の朝鮮国(李朝)の14代国王宣祖より、「陶山書院」の額を下賜された。李氏朝鮮の儒学研究において重要な役割を果たし、のち興宣大院君によって書院撤廃令が出されたときも、陶山書院はその対象から外された。
第二次世界大戦後、朴正煕大統領の時代に新しく玉珍閣が設けられ、ここで李滉が用いたとされる文具などが展示されている。また、同大統領は日本産の金松を植樹したが、国民世論の反対で伐採された。
2019年にアゼルバイジャンで開かれた第43回世界遺産委員会では「書院、韓国の性理学教育機関群」に登録。9か所のうちの一つである.

鳳停寺

安東鳳停寺極樂殿は慶尚北道安東市西後面鳳停寺にある高麗時代の建築物で、大韓民国の国宝第15号である。極楽殿は永州市の副石寺とともに韓国に残っている最も古い木造建築物である。建立時期は主審捕食である点から高麗中期とみなす見解と高麗末期と推測する2つの見解がある。正面3間、側面4間の断層合わせ屋根、主心砲の建物である。
概要
天登山の麓にある鳳停寺は統一新羅大新聞王衣装大使が建てたと伝える。ブソクサを建てた衣装大使がブソクサから紙で鳳凰鳥を作って吹き飛ばしたが、その鳥が落ちた席に寺を建てて奉政寺と名付けたという伝説が伝えてくる。
極楽殿はもともと大将殿と呼ばれたが、後に名前を変えたという。 1972年、保守工事の際、高麗公民王12年(1363)に屋根を大幅に修理したという記録が盛り込まれた商量門を発見した。
前面3間・横面4間の大きさに、屋根は横面から見た人の人形をした合わせ屋根で飾った。柱は船流の形態であり、軒の突き出しを長くするために柱の上に上げた恐怖が柱の上だけにある主審砲様式である。建物の内側には仏像を祀り、その上に仏像をより厳粛に飾る華やかなおおいを作った。また仏像を祀った仏壇の横面には高麗中期陶磁模様のようなつる模様を刻んだ。
鳳停寺極楽殿は統一新羅時代建築様式を模倣している。